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コメント欄に記事で反応したくないのですが誤解を解くべく。記事にタイトルを付け始めたのが12月の7日だと思われるのですが、そのちょっと前の11月25日に一戸がタイトルを二文字にするのをやめたわけです。そして暇人の方でタイトルを二文字にし始めたわけで、その流れにのっかってタイトルを付けようと俺の中で決定し、ただ熟語とかも今更だし記事に沿ったタイトルも普通なんで関係ないのをつけようってことで今のタイトルのような「ラノベのような人の名前が付いたなんかのタイトルっぽい題名」になったわけです。意図した訳じゃないけど何となくそんな感じになった。そして人の名前は全部ブログの記事を書き始めるときに何となく最初にインスピレーションで浮かんだものを描いてるわけで、決してエロゲなんかではない。被ったとしてもたまたまだ。放置しておくとそうなんだと納得され真実になってしまいそうなので書いた。
もやしもんを買った。特別版は当たり前だがとうに売り切れていたので通常版を買った。悔しさのあまりげんしけんの特別版を買いそうになった。いや、買ってしまう。このままであっさり買いかねない。まず沙村広明が描いている。そして畑健二郎も描いている。そんな同人誌とか超欲しいだろ。そしてもやしもんだ。もはやこの楽しさは宇宙規模ですよ。長谷川!とか叫びながらベッドの上をボインボイン跳ね回った。素晴らしい。本当に素晴らしいよ。石川さん、あんたすげえ大人だよ!!わてもあんたみたいになったる、なったるでーー!!みたいな感じです。
薄い皮膜の話。自分の回りには薄い皮膜がある。それは僕を包んでいる。世界はこの薄い皮膜に遮られて入ってこない。世界は僕の干渉によって開き、触り、存在することが出来る。いつ頃からこの皮膜があるのかは知らない。この皮膜のおかげで胎内にいる乳児のように安寧の時を享受していられる。もしこの皮膜が破れたら僕はどうなるのだろうか。赤子のように息も出来ず、誰かが背中をたたくのを待つのだろうか。泣くのだろうか。泣いて、順応していくのだろうか。この世界の論理に従って生きていくのだろうか。懐疑の心を忘れるのだろうか。それとも壊れるのだろうか。雪崩のように押し寄せる圧倒的な他者と悪夢のような論理と裁きによって僕の心はバラバラになるのだろうか。我思う、故に我あり。デカルトは言う。壊れたら、この世界には何があるというのだろう。目覚めたら、順応したら何が目に映る。何が聞こえてくる。審判の日は来ない。神は死んだ。世界は救世主なんかじゃ救えない。メシアじゃ意味がない。そんなものに頼るうちに死ぬ。死はメシアか? 死は終わりだ。輪廻でも救済でもない。一切が終わる。宇宙も終わる。矛盾も終わる。論理も感情も。皮膜が破られるとき、たぶん宇宙も変わって、何かしら見えるかもしれない。今見ている世界を忘れたくない。それは死だから。解らぬほど怖いものはない。理解は勝利への道だ。適当に片仮名を書き連ねてもアリストファネスは出てこない。理解が必要で、そして構築が必要で、運用が必要で、防御が必要で、覚悟が必要で、絶え間無い思考が必要で、行動が必要だ。世界は何も施してはくれない。求めよ、さらば与えられん。よく見ろ。何が起こっているか。縛られること、思考の停止、流されること、怠惰。そんなことではダメ。いつの間にか取り込まれてしまう。その先には虚しさしか見えない。疲労と後悔があるだけなんて救いが無さ過ぎる。人は一人だ。一人でしかない。残念ながら。世界も一つだ。一つしかない。二つもいらない。同一を目指す必要がない。自らの頭で考えたことは誰にも阻害されない。世界を救えるのは自分だけなんだ。回りを救うのは先だ。哲人にでもならなければ。自らを救おう。腐れ切った集団意識なんて何の用があるのか。枠組みは社会だけでいい。人格に属性なんてポケモンでもあるまいし。二元論を捨てろ。自分の感じる世界は全てではない。そろそろ社会は変わる。次に来るのは圧倒的な個人主義だ。そしてたぶん今の社会の最後尾に自分たちはいる。これは怖い。さっきまでサッカーやってたらいきなりラグビーになるようなものだ。じゃあ何が必要なのか。一人の力だ。動け。ルールは体で覚えろ。それか競争を捨てろ。道はあまりない。必要なのは自分自身で考える力を持つことだ。引っ張り揚げられた魚は進化する前に死ぬ。自ら上がったものは生き延びる。深海で、進化をやめても生き残る。適応か、競争から引くか。グズグズしてると席は埋まる。
2006年12月24日05時50分53秒コメント:0